ぱーるの日記

書評を載せると思います。

『和解』に向けて―書評【志賀直哉『城の崎にて』】―

 『和解』は志賀と父親との不仲を解消するまでを描いた傑作です。本書はそこに至るまでの志賀の微妙な気持ちを描いていると解釈しています。微妙とは、生死に感じやすい気持ちと調和的な気持ちのはざまにいるという意味です。個人的に『和解』は凄く好きな作品なので、ぜひ本書とセットで読んでほしいと思います。

 

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 1913年8月、志賀は里見弴と素人相撲を観に行った。その帰り道、山手線に跳ね飛ばされた。志賀は重傷を負った。本書はその怪我の後の気持ちを書いている。

 志賀は、兵庫県にある城崎温泉へ出かけた。事故による怪我の養生のためだ。散歩している時、志賀はよく怪我のことを考えた。1つ間違えば、祖父や母と共に墓に埋まっていたかもしれない。今までは、死を遠い先のことにしていた。ただ、重傷を負った後、死が「いつのまにか起こっているもの」のような気がしてきた。志賀は、死に対する親しみを覚えていた。

 ある朝、一匹の蜂が死んでいた。他の蜂は忙しく巣を出入りしている。死んだ蜂の傍を這い回るが、気にする様子はない。働く蜂からいかにも生きているものという感じを、死んだ蜂からはいかにも死んだものという感じを受けた。次の日、蜂の死骸は人知れず無くなっていた。

 鼠は川に投げ込まれていた。首の所には、25cmほどの串が刺し通されていた。子供と車夫はその姿を見ていた。鼠は石畳に這い上がって逃げようとする。見物人は鼠に石を投げる。面白がって大声で笑っている。鼠は全力で逃げ回っている。死ぬ運命に決まっているのに。蜂の死骸を見たとき、志賀は死の静けさに親しみを覚えた。だが、静けさに到達する前に動騒があることを、鼠の姿は教える。志賀は恐ろしさを感じた。

 志賀はイモリを殺した。ある夕方、小川に沿って歩いていた時、志賀は川でイモリを見つけた。イモリを脅かして川に入れようと思った。石を投げた。イモリは尻尾を反らした後、動かなくなった。志賀はイモリを殺した。殺す気がないのに殺してしまった。志賀は嫌な気持ちを覚えた。それと共に、生き物の淋しさを感じた。イモリは志賀の投げた石によって偶然死んだ。志賀は電車にはねられたが偶然死ななかった。

 蜂も鼠もイモリも死んでしまった。志賀は生きている。生きることと死ぬことに差はない気がした。志賀は死ななかったことに、感謝しなければ済まない気がした。ただ、喜びは覚えなかった。

 本書において、志賀は静かな感情を抱き続けている。頭がはっきりしない一方で、近年になく静まって落ち着いたいい気持がしていた。自分が死ななかったのはまだしなければならない仕事があるからだと熱っぽく語る一方で、妙に心は静まっている。生きていることへの感謝を感じる一方で、喜びの感じは湧き上がって来ない。感情の動きの一方には、常に静かさがある。本書に通底するこのような感情は、何に起因しているのだろうか。

 それは、元となった城崎旅行と、本書の執筆の時期にずれがあることに因る。城崎旅行は1913年に実施された。本書は1917年5月に『白樺』に発表されている。元の体験と、実際の執筆にずれがあることで、本書には志賀の2つの感情が容れ込まれた。

 1つは生死に関する心の動きだ。1913年、城崎旅行の際に、志賀が抱いていた思いは『或る男、其姉の死』の中に率直に書かれている。志賀は父親と不仲であった。父親は息子を実家に入れようとしなかった。志賀は不仲を原因に、尾道に住むようになる。父親は志賀への愛を失い、「死ぬものなら早く死んで呉れる方がいいと思うて(p.352)」いた。事故で重傷を負った時、志賀は死ななかったことに感謝した。一方で、死ななかったことを心から物足らなくも思っていた。「『いつそ、死んで呉れたら…』といふ事を不図思ひ浮かべる、さういふ人が確かにある(pp.356-357)」からだ。蜂や鼠やイモリの死に強く反応するのは、事故と父親の言葉に原因がある。

 もう1つは調和的な気持ちだ。本書が発表される1917年、志賀は激動の中に居た。1916年、妻康子との間に産まれた彗子は生後56日で死んだ。1917年7月には留女子が産まれている。もちろん志賀は出産の前に妻の懐妊を知っている。時系列に直せば、彗子の死、康子が留女子を懐妊、本書の発表、となる。つまり、本書の発表時点で、志賀は自らの娘の死と宿りに臨んでいる。その後、志賀は「段々に調和的な気分になりつつある事を感じた(『和解』p.65)」。

 つまり、実際の城崎旅行の時、志賀は父親からの言葉を思い出し、死ななかったことへの物足らなさを抱いていた。一方で、本書の執筆時には、調和的な気持ちを持ち合わせていた。だから、死への物足りなさという心の動きを感じつつも、そちらには傾かず調和するため静かさも持っていたのだ。それは、本書の桑の部分でも暗示されている。桑の葉は、風が無いのにヒラヒラと動いている。だが、風が吹き始めると、葉は動かなくなった。これは、父親からの言葉=風を受けつつも、動かない志賀の心の静寂さ=葉を表しているのではないか。

 本書は、父からの残酷な言葉と、それに流されない調和的な気落ちの双方を下敷きにしている。調和的になった後の志賀は、年内に父との和解を成立させている。それを考えれば、本書は代表作『和解』に繋がる志賀の心境を描いた作品と言える

良い文章は、「心」からはじまる。―書評【辰濃和男『文章の書き方』】―

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①とにかくたくさん見て聞いて読め

②読み手の側に立て

 

ひっじょ~に大まかに言えば、辰濃の主張はこの2点です。

姉妹本である『文章のみがき方』も同様の主張です。

 

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 小学生の頃は読書感想文、大学生になったらレポートや論文、社会人になれば上司に報告書を提出しなければならないときもある。人として生きていれば、文章を書くことは自然と付きまとってくる。ただ、どう書けばいいのか、何を心がければいいのか、疑問に答えてもらった覚えは、僕には無い。つまり、どのように文章を書いたらいいのかはわからないまま文章を書いて来たのである。辰濃和男は「文は心である」を出発点とする。そして、そこから、わかりやすい文章を書くために、気をつけること、日ごろから心がけるべきことを浮き彫りにしていく。

 辰濃が考える「心」とは、「なんとしても相手に伝えたい情熱」と「相手の側に立つ心の営み」(p.103)だ。言い換えれば、情熱を持って伝えたいと思う素材を見つけ、それを相手のことを考え、伝わりやすいように文章にした時、初めてわかりやすい文章が出来上がる。

 どのように素材を見つけたらよいだろうか。自分の目で観て、耳で聞くことで、外の世界を直に観察する力を身に着けよう。世界を直に観察するためには、先入観に囚われないことが大切である。また、観方だけでなく、観る量も大切だ。なぜなら、対象を見つけなければ書きたいという情熱は生まれてこないからだ。様々な思いを抱いて生きている人々から学びを得る。自分とは全く無縁の世界の本を読むのもいい。

 こうして得られた素材を、どのように文章にしていくか。「相手の側に立つ」とは、自分の情熱をわかってもらうようにする作業である。そのためには、平易で、情景がすぐに思い浮かぶ言葉を使い、比喩をうまく用いることが必要だ。また、自分の文章が読者からどう見えるか点検することも大切だ。文章が社会に影響を与えるものであることを鑑みれば、社会が偏っていないか、書き手が確認することも大切だ。具体性を大切にすることは、自分の情熱を正直に文章化することに繋がる。ものごとをゆとり持って眺め、素直に表現することで、品のある文章になる。品格は小手先の技術を超えたところにあるものだ。

 相手の側に立てば、よりわかりやすい文章が望ましい。そこを目指すため、書き手は文章を推敲する。文章を正確にするため裏付けを取る。これこそ伝えたいと思う情熱以外は文章からそぎ落とす。そして、黙読や音読を通じてすらすらと文章が流れているか確認できれば、わかりやすい文章になっていると言えよう。

 辰濃がこれほど「心」を重視しているのはなぜだろう。本書の姉妹本である『文章の磨き方』でも、技術よりも「心」が大切と言っている。英語が苦手なおじいさんがニュージーランドの牧場にホームステイした時のことを想像し、「伝えたい切なる思いさえあれば、英文法なんかは二の次(p.86)」と例えている。

 それは、辰濃が裏表の概念があった時に、裏を重視する思想を持っているからである。「私たちはふつうそれほどの理由もないのに、陽が主で陰が従だとか、実が主で虚が従だとか、緊が主で緩が従だとか、そういうふうにきめつけがちだ。(中略)本音をいえば、私は光よりも闇、陽よりも陰、実よりも虚、緊よりも緩、作為よりも無為、色よりも空などが、よほどこの世の仕組みをつくるのに大切な役割を果たしているはずだと思っている(p.157-158)」。人は働くことで休む時間を得て、休むことでよりよく働く知恵やエネルギーを蓄える。辰濃は、現代人が動よりも静、あくせくよりもぼんやりを重視すべきと『ぼんやりの時間』で主張している。

 「心」は「知識・感情・意志の総体。『からだ』に対する(広辞苑)」と定義される。手を動かして文章を書いているのだから、その動きの主体は「からだ」である。「心」は文字として具体化されない。具体的に見えないからこそ、どう強化していいかわからない。だからこそ、我々は「こう並べれば上手い文章が書ける」と言ったような技術論に安易に走ってしまうのである。

 「からだ」は目に見え、「心」は見えない。目に見えないからこそ「心」を重視するべきだと辰濃は主張したいのである。小手先の技術論は目に見える文章は改善できるかもしれない。だが、これこそ伝えたいと思う情熱や相手の側に立つ気持ちに技術は通用しない。「心」を磨かない限り、本当に人の心を打つ文章は書けないのである。

 

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 余談ですが、谷崎潤一郎『文書読本』が『書き方』『みがき方』のネタ本っぽいといつも思っています。

 

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アタリマエを打ち破れ!―書評【ミシェル・フーコー『監獄の誕生』】―

 

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 簡単に言えば、「死刑=残酷」「監禁刑=残酷ではない」という図式を打ち破ろうとしたのが、本書です。

 

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 「溶かした鉛、煮えたぎる油、焼け付く松脂、蝋と硫黄との溶解物を浴びせかけ、さらに、体は4頭の馬に四裂きにさせたうえ、手足と体は焼き尽くして、その灰はまき散らすべし」。ルイ15世の暗殺未遂を企てたダミアンに対して、このような有罪判決が下された。しかし、現代において、このような悲惨な刑執行の様子を見ることはない。罪を犯せば、裁判所で裁かれ、刑務所に入れられる。このような処罰手段の変化はどうして起こったのだろうか。その変容の解明を出発点とし、刑罰と関わる権力や人間諸科学の分析をすることが、本書の目的である。

 まず、上記のような身体刑はなぜ行われたのだろうか。それは王が自己の権力を表明するためである。王政下において、犯罪は即ち法を発布している王権への反抗になる。だから、犯人を過激に処罰することは、王が自らに対する反抗を許さない、と刑を見物する民衆にアピールすることに繋がっていた。

 だが、18C末になると、社会状況が変化する。1つは、身体刑に対する反発が民衆の中に発生した。また、流血沙汰の犯罪が減少し、盗みが増加した。大規模な武装集団は解散し、こそこそと罪を犯す徒党が至る所に現れた。また、所有権が確立することで、下層民による盗みが処罰の対象となった。都市人口が増加していたことも相まって、従来見逃されていた盗みを細々と処罰するには、華やかな身体刑は効率が悪かった。

 これらの変化は、刑罰の改革を推進させた。改革者はなるべく刑を軽くし、民衆からの反乱を抑えようとした。また、道路で盗みを繰り返した犯人に道路の補修工事を科すように、犯した罪と刑とが民衆の頭の中で結び付くようにし、従来の見せしめとしての刑の効果を維持しようとした。

 だが、一般的になったのは改革者たちの案ではなく、監獄による拘禁刑だ。なぜか。それは、監獄による絶え間ない訓練が受刑者を従順で、主に経済的側面で有用な人体に仕立て上げるからだ。

 学校や軍隊や工場、監獄だけでなく、社会全体に規律・訓練を染みつけるために3つの方法を用いた。まず、多様性をひとまとめに序列化して管理する、次に、規律を法律の様に制度化し逸脱者を罰し矯正する、そして個人をより明確に管理するために試験やアンケートを実施する。かつて自身の権力を誇示した君主とは異なり、規律・訓練の権力は自身を隠し、個人を監視し彼らに関する知を引き出し管理する。このような一方的で永続的な監視の状態をフーコーは「パノプティコン」と呼んだ。こうして、規律・矯正は「国民的なもの」になった。

 フーコーの意見をまとめるとこうなる。つまり、身体刑から監獄による拘禁刑へと処罰の形が変化したのは、ヒューマニズムからではなく、犯罪形態の変化や経済的有用性の観点からである。言い換えると、身体刑は残酷だから唾棄されるべきもので、拘禁刑は残酷ではない。残酷が排除されたと言う意味で、刑罰は進歩しているとは言えないのである。

 では、なぜフーコーは本書の(サブ)タイトルを『“監獄”の誕生』としたのだろうか。原題が『監視と処罰』であることを鑑みれば、本文中に登場するような学校や軍隊、工場の『誕生』でもよかったのではないか。

 その理由の1つに、囚人たち一人一人の声を汲み上げるべく創設した「監獄情報グループ(GIP)」にフーコーが携わっていたことが挙げられる。フーコーは知識人として団体を代表するのではなく、当事者たちが声を上げることのできる手助けをするとのスタンスで活動していた。フーコーが本書を「問題にしている人から理解される」ことを望んだことは、正に彼のスタンスを示している。

 もう1つの理由は、現代における監獄による処罰が進歩史観的に正しいものだと思いこまれていることを批判しようと試みたからである。上記の様にフーコーは「身体刑=残酷」「監禁刑=残酷ではない」との単純な図式が間違っていることを本書内で指摘した。フーコーは、正当な批判の方法をこう述べている。「受け入れられている様々なpracticeはいかなる種の明証性や慣習性に基づいているのか。そして、獲得されて改めて反省されることのないような、いかなる思考様式に基づいているのか、と言うことを見極めることこそが批判」と。まさしく、本書で行われた方法と同じである。であるならば、その方法を適用した監獄が反省されることない慣習であると批判したと言える。

 フーコー古代ギリシアディオゲネスの「価値を変えろ」と神託の意味にしばしば立ち返ったと言う。「価値を変えろ」とは、見方を変えろと言うことだ。反省することなく既存の枠に当てはめて物事を見る姿勢を変えろと言ったのだ。つまり、「身体刑=残酷」の単純な図式を捨てることで、各時代の刑罰が各時代の状況に適合したものであったことを明らかにした。本書の成功はフーコーが「自らの価値を変えた」からこそである。

「普通の人間」が小説家として書き続けるために ―書評【村上春樹『職業としての小説家』】―

 

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 本書は、紀伊国屋書店が初版10万部の9割を買い占めたことで話題となりました。ですが、そうしたいわゆる「今売れてます!」で消費される本ではないと思います。

 「ごく普通の人間」であっても、「最も重要な日本の現代作家」と評されるほど活躍できることを教える、大きな励ましとなる本です。 

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 1978年4月、村上春樹神宮球場に野球を見に行った。ヤクルトの先頭バッターがヒットを打った瞬間、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思った。当時、村上はジャズバーを経営し、小説家になろうと一度も思ったことがない。そんな村上が、ある種の啓示を受け、35年あまりにわたって小説家として活躍できたのは驚きだ。本書はその驚きについての語りである。

 村上は何を書くのか。「『本当はこういう小説が書きたいんだ』というあるべき姿が頭の中にありました(p.97)」と村上は言う。その「あるべき姿」とは、自分の自由な心の在り方を映し出す小説だ。それは物語とも言える。物語は魂の奥底に存在する。それを語るためには、自分の心を深部まで掘り下げなければならない。心の深部で手に入れた物語を、具体的な形として文章にする。

 村上はどのように書くのか。自由な心の在り方を書くためには、自らが自由でなくてはならない。村上は海外で長編小説を書くことが多い。それは、国内にいる時の雑音を遮断するためだ。また、村上は芥川賞などの「肩書き」に関心がない。権威に裏付けされる煩わしさから自由になり、村上春樹という「個人の資格」でものを書いてきたことについて誇りを持っている。

 村上は誰のために書くのか。1つにそれは、自分のためである。加えて、「総体としての読者」がある。「総体としての読者」とは、村上の物語に共感する読者のかたまりである。上述の通り、村上にとって物語とは人の魂の奥底にあるものだ。そして、物語は魂の奥深くにあるからこそ共感を呼び起こし、人と人とを根本で結び付けることができる。 

 そして、村上はなぜ小説を書き続けるのか。それは、「ごく普通の人間」であっても小説が書けるのだという驚きを持続させるためである。そのために、村上は2つの力をつけた。1つは自己革新である。例えば、小説の人称を一人称から三人称まで増やしてみる。65歳を過ぎてなお、自らを「発展の途上にある作家」と評し「『伸びしろ』はまだ無限に残されている(p.294)」と言う。国内、海外で読者を増やした村上の「伸びしろ」は自己内部に残されている。もう1つは持続力である。長編小説を書くとき、村上は朝早く起きて、毎日5時間から6時間集中して執筆する。また、毎日のランニング、水泳は欠かさない。日々の規律を守るためには、肉体的タフさは欠かせない。

 村上はオリジナリティの条件を、独自のスタイル、自己革新、時間の経過によるスタンダード化の3つとする。前2つは間違いなく満たしている。村上がオリジナルであるかどうかは、「時間によって証明されること、時間によってしか証明されないこと(p.283)」である。

 私は本書を読んでいて第8回「学校について」の唐突さに違和感を覚えた。第1回から第7回、第9回から第12回まではタイトル通りの小説、物語論である。だが、「学校について」だけは一見教育全般についての語りだ。「そろそろ僕自身の学校体験について、あるいは教育というもの全般について(中略)語ってもいいんじゃないかと思うようになったから(p.192)」と述べているが、些か腑に落ちない。なぜ、本書に「学校について」の章が容れ込まれているのだろうか。

 村上はこの章で小説の役割について具体的に語りたかったのだ。村上の考える小説の役割とは、人と人とを根本で結び付けることである。エルサレム賞を受けた際のスピーチにおいて、村上はシステム=効率性を「壁」、個人を「卵」と例えた。そして私は常に卵の側に立つと主張した。「我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです」。

 つまり、社会の根底となる日本の教育は個人の資質を伸ばそうとしないシステムになっている。日本の社会システム全体と同様、それは時代遅れのものだ。壁に対抗する、つまりシステムを改良するためには、物語を共有し、魂を1つにする必要がある。そのために小説は必要なのだ。

丸山の極点―書評【丸山 眞男「歴史意識の『古層』」】―

 

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丸山後期の「古層」論は、3つの部分に分かれています。

1972年「歴史意識」、1976年「倫理意識」、1988年「政治意識」の3つです。

これらにおいて、「歴史意識」の「つぎ」の論理が、「倫理意識」「政治意識」の基礎論理の前提となっている…

そして、日本における「身内びいき」の傾向は「天皇が千代に八千代に…」的な「つぎ」の論理に拠っています。

 

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「よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな」。

明治天皇による御製に象徴されるように、日本は外国からの輸入品でもって国を構築してきた。ただ、それらは日本に入り微妙な変化が加わる。丸山はこの変化に繰り返されるパターンを見つけた。そのパターンこそが、日本思想史の「古層」である。当論文は、歴史意識の3つの「古層」に焦点を当てる。

 1つ目は「なる」だ。世界の諸神話にある宇宙創成論の根底には3つの基本動詞がある。世界は創造者が目的を持って作ったとする「つくる」、神々の生殖行為でできたとする「うむ」、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現したとする「なる」だ。日本においては、「なる」が相対的比重を持つ。『古事記』における国生みの段で、「つくる」は創造ではなく、整備や修理の意味を持つ。また、イザナキとイザナミの生殖行為によって国を「うむ」段階に一旦入る。だが実際には、神はイザナキ単独のみそぎの過程で「なる」。

 「なりまかる」は仏教の厭世的な世界観を投影した言葉だ。しかし、『愚管抄』においては、「をりにしたがひて、ともかくも『なりまかる』」と楽観的に読み変えられている。

 2つ目は「つぎ」だ。『記紀』において、「つぎ」は「先、次」のように時間を追った連続的展開を意味した。その意味は、皇室の血統の継続性と連続的無窮性に繋がった。父は子を「継ぐ」。それが「つぎつぎ」に行われ、一族は絶えることなく増殖する。

 古典思想が流入するに従い、正統性が天から授けられるものとする中国の論理と「つぎ」の論理が対立することになる。儒学者は中国の天と「つぎ」を接合させ、「天つ神から『継ぐ』」という論理で対立を解決した。 

 3つ目は「いきほひ」だ。「いきほひ」とは、一方向への連続して生成するエネルギーを意味する。『古事記』の書き出しには「天地初発之時」とある。「初」のエネルギーを「いきほひ」とし、「天地」が「つぎつぎ」に「発」することで、宇宙が「なる」とするのが、書き出しの意味である。

 中国の兵家における「勢」は個人の能力で左右できない運動を示した。そして、「勢」は時間の中で連続して生成する「いきほひ」と結びついた。結果、時間の経過でこういう方向になってしまったのだから仕方ないという意味での「時勢やむを得ず」、「天下の大勢」の歴史意識を生んだ。

 3つの「古層」は、日本人に「いま」を尊重させる。なぜなら、日本は一方向への「いきほひ」を持つから、過去という2つ目の方向を向けないからである。また、「古層」には、未来における理想や目標がない。ただ、「つぎつぎ」に増殖していくだけである。だから、未来とも相いれないのだ。その都度「いま」だけを見て、道理を、国そのものを作り替えてきたのが日本である。

 丸山は、「古層」論を3つの部分に分けて研究していた。それは「歴史意識の『古層』」、「日本における倫理意識の執拗低音」、そして「政事の構造―政治意識の執拗低音」である。3つの「古層」論の中で、当論文は他の2つの前提として位置付けられる。

 「倫理意識」において、自分が属している共同体に対するまっすぐな献身が共同体の内部で最高の評価を得ていることを指摘する。それは、自分の内部、外部の2つの「古層」を満たすからだ。内部とは、邪(キタナキ)心を嫌う日本人の傾向である。外部とは、自分が同一化する共同体に禍害をもたらすか否かで、人が清いか汚いかの定義が決まるという意味である。丸山はこれを「集団的功利主義」と呼んだ。ヤマトタケルは西方のクマソタケルを騙して殺した。しかし、それがよそ者に向けられているという意味で、ヤマトタケルへの崇拝の妨げにはならなかった。

 「政治意識」においては、政治の「身内」化現象が「古層」の1つとされる。例えば、摂関政治においては、藤原氏の家政機関である「家司」が実際には決定権を行使した。また、院政においても、院の側近が「院司」となって、広範な実権を握った。

 政治意識、倫理意識の「古層」に共通するのは、「身内びいき」という点である。そして、「身内びいき」を規定するのが、歴史意識における「つぎ」の「古層」だ。政治の「身内」化は「つぎ」による家系の増殖を前提としている。また、倫理の「集団的功利主義」も属する集団が「つぎつぎ」と増殖することが前提となっている。身内は「つぎつぎ」と増殖し、絶えることはないという意識こそが、政治の「身内」化、「集団的功利主義」を可能にしている。つまり、各意識の「古層」の前提に当論文の「つぎ」が位置づけられるのだ。

 丸山は『日本政治思想史研究』のあとがきにおいて「日本思想史研究は(中略)新たな視角と照明の投入によって、全体の展望は本書におけるとはかなりちがったものとなる」と言った。当論文は「つぎ」という「新たな視角と照明を投入」したという意味で高く評価できる。