ぱーるの日記

書評を載せると思います。

丸山の極点―書評【丸山 眞男「歴史意識の『古層』」】―

 

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丸山後期の「古層」論は、3つの部分に分かれています。

1972年「歴史意識」、1976年「倫理意識」、1988年「政治意識」の3つです。

これらにおいて、「歴史意識」の「つぎ」の論理が、「倫理意識」「政治意識」の基礎論理の前提となっている…

そして、日本における「身内びいき」の傾向は「天皇が千代に八千代に…」的な「つぎ」の論理に拠っています。

 

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「よきをとり あしきをすてて外国(とつくに)に おとらぬ国となすよしもがな」。

明治天皇による御製に象徴されるように、日本は外国からの輸入品でもって国を構築してきた。ただ、それらは日本に入り微妙な変化が加わる。丸山はこの変化に繰り返されるパターンを見つけた。そのパターンこそが、日本思想史の「古層」である。当論文は、歴史意識の3つの「古層」に焦点を当てる。

 1つ目は「なる」だ。世界の諸神話にある宇宙創成論の根底には3つの基本動詞がある。世界は創造者が目的を持って作ったとする「つくる」、神々の生殖行為でできたとする「うむ」、世界に内在する神秘的な霊力の作用で具現したとする「なる」だ。日本においては、「なる」が相対的比重を持つ。『古事記』における国生みの段で、「つくる」は創造ではなく、整備や修理の意味を持つ。また、イザナキとイザナミの生殖行為によって国を「うむ」段階に一旦入る。だが実際には、神はイザナキ単独のみそぎの過程で「なる」。

 「なりまかる」は仏教の厭世的な世界観を投影した言葉だ。しかし、『愚管抄』においては、「をりにしたがひて、ともかくも『なりまかる』」と楽観的に読み変えられている。

 2つ目は「つぎ」だ。『記紀』において、「つぎ」は「先、次」のように時間を追った連続的展開を意味した。その意味は、皇室の血統の継続性と連続的無窮性に繋がった。父は子を「継ぐ」。それが「つぎつぎ」に行われ、一族は絶えることなく増殖する。

 古典思想が流入するに従い、正統性が天から授けられるものとする中国の論理と「つぎ」の論理が対立することになる。儒学者は中国の天と「つぎ」を接合させ、「天つ神から『継ぐ』」という論理で対立を解決した。 

 3つ目は「いきほひ」だ。「いきほひ」とは、一方向への連続して生成するエネルギーを意味する。『古事記』の書き出しには「天地初発之時」とある。「初」のエネルギーを「いきほひ」とし、「天地」が「つぎつぎ」に「発」することで、宇宙が「なる」とするのが、書き出しの意味である。

 中国の兵家における「勢」は個人の能力で左右できない運動を示した。そして、「勢」は時間の中で連続して生成する「いきほひ」と結びついた。結果、時間の経過でこういう方向になってしまったのだから仕方ないという意味での「時勢やむを得ず」、「天下の大勢」の歴史意識を生んだ。

 3つの「古層」は、日本人に「いま」を尊重させる。なぜなら、日本は一方向への「いきほひ」を持つから、過去という2つ目の方向を向けないからである。また、「古層」には、未来における理想や目標がない。ただ、「つぎつぎ」に増殖していくだけである。だから、未来とも相いれないのだ。その都度「いま」だけを見て、道理を、国そのものを作り替えてきたのが日本である。

 丸山は、「古層」論を3つの部分に分けて研究していた。それは「歴史意識の『古層』」、「日本における倫理意識の執拗低音」、そして「政事の構造―政治意識の執拗低音」である。3つの「古層」論の中で、当論文は他の2つの前提として位置付けられる。

 「倫理意識」において、自分が属している共同体に対するまっすぐな献身が共同体の内部で最高の評価を得ていることを指摘する。それは、自分の内部、外部の2つの「古層」を満たすからだ。内部とは、邪(キタナキ)心を嫌う日本人の傾向である。外部とは、自分が同一化する共同体に禍害をもたらすか否かで、人が清いか汚いかの定義が決まるという意味である。丸山はこれを「集団的功利主義」と呼んだ。ヤマトタケルは西方のクマソタケルを騙して殺した。しかし、それがよそ者に向けられているという意味で、ヤマトタケルへの崇拝の妨げにはならなかった。

 「政治意識」においては、政治の「身内」化現象が「古層」の1つとされる。例えば、摂関政治においては、藤原氏の家政機関である「家司」が実際には決定権を行使した。また、院政においても、院の側近が「院司」となって、広範な実権を握った。

 政治意識、倫理意識の「古層」に共通するのは、「身内びいき」という点である。そして、「身内びいき」を規定するのが、歴史意識における「つぎ」の「古層」だ。政治の「身内」化は「つぎ」による家系の増殖を前提としている。また、倫理の「集団的功利主義」も属する集団が「つぎつぎ」と増殖することが前提となっている。身内は「つぎつぎ」と増殖し、絶えることはないという意識こそが、政治の「身内」化、「集団的功利主義」を可能にしている。つまり、各意識の「古層」の前提に当論文の「つぎ」が位置づけられるのだ。

 丸山は『日本政治思想史研究』のあとがきにおいて「日本思想史研究は(中略)新たな視角と照明の投入によって、全体の展望は本書におけるとはかなりちがったものとなる」と言った。当論文は「つぎ」という「新たな視角と照明を投入」したという意味で高く評価できる。