ぱーるの日記

書評を載せると思います。

「普通の人間」が小説家として書き続けるために ―書評【村上春樹『職業としての小説家』】―

 

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 本書は、紀伊国屋書店が初版10万部の9割を買い占めたことで話題となりました。ですが、そうしたいわゆる「今売れてます!」で消費される本ではないと思います。

 「ごく普通の人間」であっても、「最も重要な日本の現代作家」と評されるほど活躍できることを教える、大きな励ましとなる本です。 

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 1978年4月、村上春樹神宮球場に野球を見に行った。ヤクルトの先頭バッターがヒットを打った瞬間、「そうだ、僕にも小説が書けるかもしれない」と思った。当時、村上はジャズバーを経営し、小説家になろうと一度も思ったことがない。そんな村上が、ある種の啓示を受け、35年あまりにわたって小説家として活躍できたのは驚きだ。本書はその驚きについての語りである。

 村上は何を書くのか。「『本当はこういう小説が書きたいんだ』というあるべき姿が頭の中にありました(p.97)」と村上は言う。その「あるべき姿」とは、自分の自由な心の在り方を映し出す小説だ。それは物語とも言える。物語は魂の奥底に存在する。それを語るためには、自分の心を深部まで掘り下げなければならない。心の深部で手に入れた物語を、具体的な形として文章にする。

 村上はどのように書くのか。自由な心の在り方を書くためには、自らが自由でなくてはならない。村上は海外で長編小説を書くことが多い。それは、国内にいる時の雑音を遮断するためだ。また、村上は芥川賞などの「肩書き」に関心がない。権威に裏付けされる煩わしさから自由になり、村上春樹という「個人の資格」でものを書いてきたことについて誇りを持っている。

 村上は誰のために書くのか。1つにそれは、自分のためである。加えて、「総体としての読者」がある。「総体としての読者」とは、村上の物語に共感する読者のかたまりである。上述の通り、村上にとって物語とは人の魂の奥底にあるものだ。そして、物語は魂の奥深くにあるからこそ共感を呼び起こし、人と人とを根本で結び付けることができる。 

 そして、村上はなぜ小説を書き続けるのか。それは、「ごく普通の人間」であっても小説が書けるのだという驚きを持続させるためである。そのために、村上は2つの力をつけた。1つは自己革新である。例えば、小説の人称を一人称から三人称まで増やしてみる。65歳を過ぎてなお、自らを「発展の途上にある作家」と評し「『伸びしろ』はまだ無限に残されている(p.294)」と言う。国内、海外で読者を増やした村上の「伸びしろ」は自己内部に残されている。もう1つは持続力である。長編小説を書くとき、村上は朝早く起きて、毎日5時間から6時間集中して執筆する。また、毎日のランニング、水泳は欠かさない。日々の規律を守るためには、肉体的タフさは欠かせない。

 村上はオリジナリティの条件を、独自のスタイル、自己革新、時間の経過によるスタンダード化の3つとする。前2つは間違いなく満たしている。村上がオリジナルであるかどうかは、「時間によって証明されること、時間によってしか証明されないこと(p.283)」である。

 私は本書を読んでいて第8回「学校について」の唐突さに違和感を覚えた。第1回から第7回、第9回から第12回まではタイトル通りの小説、物語論である。だが、「学校について」だけは一見教育全般についての語りだ。「そろそろ僕自身の学校体験について、あるいは教育というもの全般について(中略)語ってもいいんじゃないかと思うようになったから(p.192)」と述べているが、些か腑に落ちない。なぜ、本書に「学校について」の章が容れ込まれているのだろうか。

 村上はこの章で小説の役割について具体的に語りたかったのだ。村上の考える小説の役割とは、人と人とを根本で結び付けることである。エルサレム賞を受けた際のスピーチにおいて、村上はシステム=効率性を「壁」、個人を「卵」と例えた。そして私は常に卵の側に立つと主張した。「我々は国や人種や宗教を超えて、同じ人間なのだということ、システムという名の硬い壁に立ち向かう壊れやすい卵だということです。見たところ、壁と戦っても勝ち目はありません。壁はあまりに高く、あまりに暗くて-あまりに冷たいのです。少しでも勝機があるとしたら、それは自分と他人の魂が究極的に唯一無二でかけがえのないものであると信じること、そして、魂を一つにしたときに得られる温もりだけです」。

 つまり、社会の根底となる日本の教育は個人の資質を伸ばそうとしないシステムになっている。日本の社会システム全体と同様、それは時代遅れのものだ。壁に対抗する、つまりシステムを改良するためには、物語を共有し、魂を1つにする必要がある。そのために小説は必要なのだ。